6 帰宅

 月にはうさぎがいる。いまわたしの目の前にもうさぎがいる。いや、「いた」になるらしい。

「僕、帰れるようになったから帰るね!」

 急に紫色のロングヘアのツインテールをぴんと立てたと思ったら、うさぎはそう言いだした。

「……あんたの髪の毛、どうなってるの?」

「お察しの通り、うさぎは耳がいい生物ということです」

 何も察してないけど。重力を無視した髪についてどころか、うさぎが帰ることすら察していなかった。そもそも少しの間、うさぎたちの夏休みの間だけの滞在だという約束だったはずなのに、そのことすら失念していた。その程度には、うさぎの料理はおいしかったのだ。

「帰れるってことは夏休みが終わったってことなんだけどね。やだね~帰ったらすぐお仕事再開だよ」

「そりゃ……ご愁傷様」

「もう本当。ずっとつくもちゃんちでだらだら過ごしてたかったなあ。まぁえらいうさぎとして、そんなことはできないんだけどね。あ、僕の荷物とかいらないのあったら捨てといていいよ」

 捨てといていい、ということはもう地球には戻ってこないということだろうか。恐らくそうだろう。言外の含みが伝わる程度には、一緒に過ごしていた自覚がある。
 ならば、それはうさぎだって同じなはずだ。私が今どう感じているかなんて、私以上に分かっているだろうに。

「つくもちゃん、短い間だったけどありがとう。もしまた会うことがあったら、そのときはよろしくね」

 うさぎの社交辞令だ。このうさぎは、もし本気でまた会うつもりだったらこんなこと言わない。

「じゃ、ね!」

言うが早いか、うさぎは小走りで庭へ向かう。ジャンプの姿勢に入る。本当にこのまま帰る気だこいつ。勝手すぎる。そんな急に心の準備ができるわけがない。私が言うべきことは、まだ私は、何も、ああもう。

ぴょ~ん、とジャンプするうさぎに、私は抱きついた。自分の身体が、うさぎと共に上昇していく。

「え、いや何してんの?! そのまま宇宙に行ったら人間は酸素なくて死ぬよ?!」

「だから宇宙に行くなって意思表示なんだってバカ!」

「バカって言う方がバカだから! そうでなくても今のつくもちゃんはバカだけど!」

 うるさいうさぎだ。いつもより近くにいるから、よりうるさい。

「ええ〜どうしよう……もうすぐ酸素なくなる場所になっちゃうよ? 私、君に死んで欲しくないんだけどお……」

「私も死にたくないしアンタに帰って欲しくない」

「我儘だね?!」

 嘘ではないけど違う。こうじゃない。どう言うべきなんだ。ずっと使い方を忘れてしまっていたような、意地を張っていない自分の言葉を探す。

「いや……ほんとはあんたが行くところ全部行きたい。別に地球に未練とかないし、私が未練あるのはあんたにだけ……だから……」

「告白がへったくそ!」

 お手本のような尻すぼみになってしまった。へたくそで悪かったな。

「ええ〜もうどうしたらいいのさ、一生離れる気ないってこと?」

「うん」

 これにはすんなりと同意の声がでてきた。うさぎは「はぁ〜」と大きなため息をついて、ただでさえ近い顔をさらに近づけてきて、そして、キスをした。

「で、はい。これで君は地球に帰るも宇宙を漂うも月で労働するも、なんでもできるようになりました。どうします?」

「……あんたと宇宙を漂いたい」

「それは素敵なハネムーンのご提案だねえ。生憎僕には月で労働が待ってるんだよね」

「じゃあ、私も月でお仕事手伝するから、お休みの日に一緒に宇宙を漂いたい」

「プロポーズが下手くそだね〜……」

 うさぎはいつもしていた愛想笑いを忘れたようで、完全に苦渋に満ちた顔をしている。初めて相手を思いやらない、素のうさぎの表情を見ることができた気がする。
 うさぎはしばらくうんうん唸っているが、その間にも私たちの身体は昇っていく。ようやく青い星を認識することができるくらいになってから、うさぎはもう一度大きなため息をつき。いつも通り、でもいつもとは違う笑顔を見せた。

「あぁもう僕の負けです、根気負けです! つくもちゃんの好きにしていいよ。つくもちゃんが僕のこと好きなのはすごい伝わったからさ」

「えっ、あっ、いや別にそんな、好きとかじゃないけど」

「ツンデレめんど〜! いいよもう、これからのことは全部後で! まずはひさびさの私のおうちに帰ろう、珈琲くらいはあるからさ。それからその先の話をしよう?」

「うん」

 こうして少しの間の、うさぎとの人生が始まった。
スポンサードリンク


この広告は一定期間更新がない場合に表示されます。
コンテンツの更新が行われると非表示に戻ります。
また、プレミアムユーザーになると常に非表示になります。